ホースメン会議の真相【創業時の話ウラ話】
競馬情報会社のスタッフ経験もある管理人がホースメン会議について創業時のウラ話とともに真相を解説します。
合議制予想の草分け『ホースメン会議』
前回解説した友和企画とともに競馬予想会社のパイオニア的存在であるホースメン会議について解説します。
創業は昭和58年で、大物の競馬解説者が予想監督を務めたところも友和企画と同じです。創業時の予想監督はパーフェクト予想を達成したときに「競馬の神様」と話題になり、誰もが認める競馬予想界の第一人者、大川慶次郎氏でした。
提供される勝負予想「実験レース」は、大川氏を議長とする合議制で決定され、ここが友和企画と最も違う部分であり特徴でもありました。最近では珍しくも何ともない「合議制予想」の草分けといえます。
会議のメンバーは競馬専門紙「勝馬」の二宮徳明氏と同じく「ダービーニュース」の阿部一俊氏で、どちらもラジオ日本(当時ラジオ関東)の競馬中継で解説を担当する有名予想家です。
※大川氏はホースメン会議の経営者ではなく、予想監督として契約していただけでした。一時、ウィキペディア(Wikipedia)に「1981年に大川慶次郎らが中心になって設立」と記載されておりましたが、これは間違いです。
やり方次第で儲けることができる『100の実験』
ホースメン会議のコンセプト「100の実験」は、このメンバーによる会議で決定されたの勝負予想「実験レース」を1日に1レース、年間で約100レース購入し、競馬はやり方次第で儲けることができるということを実証しようというものでした。
実験の結果ですが、年度によってはプラス回収になったこともあったようですが、そうでない年もあったようです。
しかし長期間のトータル収支をプラスにすることは至難の業というか、ほぼ不可能といわれる中、それなりの実績を残したといえます。
合議制で個人予想の限界を打ち破るということも一つの「やり方」でしたが、やはり確信の持てるレースを1日1レースに絞り込むという方法で回収率を大幅に向上させました。「競馬はやり方次第で儲けることができる」ということを実証した点は、競馬予想会社として高く評価できると思います。
ここまで創業当時から第一次黄金期ともいえる期間のホースメン会議について解説しましたが、現在では全く予想家も経営体制も代わっております。
ホースメン会議 - 第一次黄金期以降
ホースメン会議の創業(昭和58年ごろ)から平成11年ごろまではホースメン会議の第一次黄金期と言えます。特に平成5年以降、日刊スポーツ、スポニチ、サンケイスポーツ、スポーツ報知など主要スポーツ紙に毎月2回、全面広告を出稿し続けており、会員数は相当多かったと思われます。
その後、予想監督は大川慶次郎氏から伊藤友康氏に、そして能勢俊介氏に引き継がれました。能勢氏は大川氏の弟子であり後継者といわれ、若くして競馬専門紙ケイシュウニュースの本紙予想を任せられた若手予想家のホープ。
能勢俊介氏~大川氏ではなく伊藤氏の後継?
競馬職人的な大川氏に対し、能勢氏は理知的なタイプで、どちらかというと時計理論の先駆者であった伊藤友康氏の後継といった感じでした。
その競馬理論はグリーンチャンネルでも好評で、微妙に変化する馬場と走破時計の関係、そして同じ条件でもレベルにより着順の評価は異なるということを細かく分析し、データ派の競馬ファンから絶大な支持を得ていました。
しかし逆に能勢氏は大川氏よりも現場(主に美浦トレーニングセンター)に通い、厩舎・騎手関係の情報も独自のルートを生かして収集しており、データ分析と合わせ、精度の高い予想を打ち出しております。
ただ、一つ残念なのは無料メール会員に登録しても、無料予想をどのように入手したいいのかが分かりにくいということです。スポーツ紙で大々的に広告展開していた当時とは違い、ウェブからの入会が主流になっている現在、その点を改善すれば競馬予想会社としての第二期黄金期も到来するのではないでしょうか。
(追記)ここで追記させていただきます。日本一の競馬予想会社と言われるまでに急発展したホースメン会議ですが、その中心人物といえる大川氏は経営者ではなく、予想監督として契約していただけでした。wikipediaによれば「1981年に大川慶次郎らが中心になって設立」と記載されておりますが、これは間違いです。